遠い空の下にいる君へ、あの時言えなかった、

ありがとうと、さようならを言うよ。



ひとつの孤独を癒すために、幾千回、君の名を呟いたのだろう。

あれから幾星霜経たとしても、かわらない、かえようのない想いがある。

手の平に握りしめた夢と、君の名前が指し示す希望だけは、

他のどんな最愛の人、大切なものがすり抜けていっても、

今もその中に存在し続けている。

君の名は既に私のもの。

返す事の出来無い、私だけの十字架。



【遥か遠くのvision】追憶・メモリー



思い起こすと朧な面影でしかない事に悲しみを覚える。

それほどの月日が経ったのだと、今更に気付く。

ゆっくりと記憶をサルベージする。

否、自ら記憶の海へダイブする。

完全に晒され、己が主観に汚されぬよう。

瞑想にも似た、深く静かなる水底にて。



潜って行く、深く、深く。

近付けば一つ一つ鮮明になる。

プールにはミズスマシと水カマキリ。校庭に伸びる校舎の影。



もう一息。

教室のロッカーで放置されたパン。ベランダに続く軋んだ鉄扉。



一息。

担任、旧友の顔。親友。同じ班の顔触れ。



そして、最後の一泳ぎ。

色素の薄い肌。

日の下では金髪に見える伸びたスポーツ刈り。

楕円の洒落た銀縁眼鏡。

その瞳はつり上がり気味で、スッと薄目で見る癖。

指の長い手、少年特有のその声。

決して破顔一笑することの無い笑み。



そこで対峙するのは十歳の子供。

幼年期から少女へ、身の内に目覚め始めたそれを、秘めたままにして。

私はあの日に辿り着く。

ガジェットもなく一気にサイコトラベル。

晴れた日のように何も無く。

雨の日のように泣いて。

風のように走り抜けた。

共にいてそれが全てだったあの日。



【図書カード】9月・教室・学校



小5の夏休み明け、席替えも済んでいない午前中の出来事。

同じクラスでも私が認識したのはこれが初めてだった。

第一声はかなり理不尽なもので私を困惑させた。

「なんで図書カードにお前の名前があるんだ」

訛りの無い、澄んだ発音の声。

「へっ」当たり前なことを聞く男子に驚く。

「ほとんどのカードにあるじゃないか」

「えっああまあ・・・」褒めては無いらしい。その証拠に眉間にしわが。

「これはお前の名前がなかったからな、これ借りたんだ」

その本を見せた、と言うより私の机の上に投げ出す。

「ああその本・・・」

三ヶ月前にも半年前にも借りた本だった。

どうも夏休み中に図書カードは更新されたらしい。

「何?」

「ううん、なんでもない」

これ以上怒らせたくない。説明は面倒くさい。黙る事にした。

席に戻ると得意げにその本を開いている。

私をからかいに来たのでは無いらしい。

なんだか可笑しくて、くすくすと笑ったのを覚えている。



放課後むすっとした君が私に言う。

「どうして言わなかったんだ、お前借りてたんだろ」

「あ」そんな調子じゃ言えるものも言えないよう。という顔をして俯く。

「ちっ」あきらめて帰り支度をし始めた。

休憩時間に本を持ってたから、返しに言ったんだろうな、

その時に古いカードを見てしまったらしい。

早くばれてしまって、ちょっと可哀想に思った。

今日一日ぐらいいい気分でいたかっただろうになあ。

それが面と向って話した最初の出来事。



【登山・遠足】10月・月ノ山ニテ



運動音痴の私には行く最初から地獄だと解っていた。秋の遠足。

案の定、山の中でヘタレる。ここが中腹なのか下の方なのかも解らない。

狭い山道に座り込む私の横を、別のクラスの子が追い越していく。

「あら、ちえ。」「こんなとこにいるの?」「えらいかね。」「大丈夫?」「バイバイ。」

声は掛けてくれる。先生も。だが誰も手は貸さなかった。

当たり前だ、登れない方がオカシイ。

犬の様に舌をダラリ、壊れたふいごの様な音を立て全身で呼吸をする。

目の前を最後尾のクラスの女子が通り過ぎる。3クラスしか無いのだ。

それにしても・・・。一番先のクラスの私が最後尾に抜かされる・・・。

〜じーんせーい、楽ありゃ苦もあるさー、・・・水戸黄門の歌が頭の中にこだまする。



「おいっ立てよ、まだこんな所かよ、おっせえなあ」

「はひ?」誰?見上げると君が仁王立ち。

「行くぞっ、立てよっ、ほらっ」脇に手を入れられ無理矢理立たされる。

かなり、ご立腹の様で怖い。眉間に皺は勿論。汗だく、眉は引きつりぴくついてる。

イキナリ手を繋がれ引張られる。かなり強引だ。前のめりになる。

思うようには進まない。進めない。足はガクブルだし。

「ちっ、そこで待っててやるから、来いよ」

足を踏鳴らし、腕組みで木立の傍らで待つ君。

「あひ」返事をしたつもり、足は動かない。一歩も。腕だけが前に出てお化けの様。

「・・・」君は振り向きもせず、いきなり走り出す。

私がそこにたどり着いた時には、姿も気配も無く。野鳥の声だけが聞こえる。

「あー・・・」見捨てられちゃった、呆れたんだ仕方ない。

うずくまる事も出来ずに立ち尽くす。



どれ位時が過ぎ、どれ位私は進んだろう、

とても僅かな距離だけど、景色は変わり、直接触れる近さにある緑が目立つ。

「おおーい」クラスの数人の男子が来た。君の姿は無い。

「一緒に行ってやるよ」同じ班のやべ君も転校生だったね。優しい人だった。

あなたの初恋の人は、今も美しく変わらないよ。まだ独身だ。

そして、君も4年の時ここへ来たんだ。5年で同じクラスに。

しばらく歩くと担任の女性教諭、ごっちゃんがいた。

当時でもかなり年配で、登山に行く姿は、厳しいものを感じた。

「あら、ちえさん、ここにいたね。もうすぐだから、がんばろうね」

「あう」とりあえず返事をする。お互いがひーふー言いながら。

いつの間にかリュック、水筒等、剥がされて男子が持ってる。

気付くと君が私の水筒をタスキがけ。

あれ?いつの間に・・・。そう思っていると、ごっちゃんが

「呼んでくれたのよ、ちえさん一人歩いてるって」

「へっ」驚いて言葉にならなかった。その前にもう声が出ないけど。

余裕の無い私は只、目の端に君の姿を写して、歩くだけ。

赤い水筒が君の腰で揺れていた。

その顔は変わらない。怖いままで。

汗で曇った眼鏡が、余計に君を苛立たせてる様。



頂上に近付いてるとごっちゃんが言う。

「後少しだから、がんばって」多分歩かせるための口実。動機、息切れ。

でも、真に受けて自分から先に行く。

「ちっ、あいつ歩けるじゃん、自分のもの持てよ」

とっても不機嫌な声。眉間の皺は見なくても解るよ。

「最後くらい自分で行きたいのよ、仕方ないわよ」

ごっちゃんのフォローが痛い。

だが、全然頂上じゃ無かった、みんなの気配はまったくしない。

再びヘタレる私、座り込んでしまった。

「信じらんねぇ、こいつ、最後まで歩けよ、立てっ」

「ふひ」号令をかけられ立ち上がる。

何とか歩く。着けば休憩も終わりお弁当の時間直前に・・・。

「置いとくぞ」ポンと荷物と一緒に、頂上の巨木の根元に置かれる。

心底呆れたのか、その後の姿は見えなかった。

一緒に居た、君が呼んでくれた男子も同様に。

「ふー」私は上を向いて、風の気配と森のざわめきを聞くだけ。それだけ。



【問う】現在・生活の中で



幼い私には、気が付かない事ばかり、

いつからだろう、私の中に君が居たのは。

いつからだろう、君は?

聞きたい事は一杯。

答えてくれる人はもう居ない。



【日常】移動教室・廊下



移動教室の時は一緒に行ってた。

全ての休憩時間は一緒だったから当然だった。

互いに部活があり、放課後は各自の場所へ。

君は水泳部。白い肌を赤くして。痛々しかった。

私は5年の時は合唱部だったが、6年からバレー部へ

からかわれていた私は少しずつ変わって行った。

これは、その時のお話し。



からかわれない筈が無い。

私と言う存在と、常に一緒に居る所。

けんじは、よくけんか腰にモノを言う。

「おまえら、なに遊んじょうや、変だないか、ちえと遊んでおかしいけんな」

私は肩を落とし済まなそうに君を見る。

君はすぐさま切り返す。

「悪いことじゃない、遊んで何が悪い、おまえはクラスの女子と遊ばないのか」

僅かに胸を張り、姿勢を正し、けんじの前で立つ姿。

眼鏡の中の瞳は極限まで細く上に持ち上がる。

「けっ、話しにならんわ」けんじは捨て台詞を残すと足早に次の教室へ。

「いくぞっ」それを見届けると、走り出す。

「まってよー」ドン臭い私はたちまち一人に。もう姿は見えない。

私は知っている。廊下の角で待っている君を、

それでも遅ければ先の教室の席から私が座るまで、見守ってくれる君を。



そんなけんじも、もう居ない、確かめようの無い、思い出。



【情景】ベランダの流し台・机



君は小まめに手を洗う。

キチンと畳まれたハンカチを既に口に咥え、

レモン型石鹸で泡をしっかり出して丹念に爪と指の間を擦る。

スッカリ泡を流すと、拭きながら机に戻り、眼鏡ケースを開け、

専用の布で眼鏡を磨いてゆく。終わると眉間のマッサージ。

一連の動作には無駄が無い。

再び眼鏡を掛けて、今迄見惚れていた私に向き直る。

「ふっ」口の端が上がる。

それで十分だった。



【卒業アルバム】振り返る・月ノ山フォト



改めてアルバムを見ると、山頂で写した、集合写真がある。

クラス別のそれを見る。写真の端に少し離れて私たちが写る。

ごっちゃんは君の肩に腕をまわしてしゃがんでいて、私は間から顔を出し、

にっこりと笑う三人。そこだけ見ると家族のスナップ写真の様。

あの後、楽しい思い出はあったのだ。

剥れ落ちた記憶の中にも、君に繋がる想いのカケラはあるのだ。

悲しいかな、人は幸せを忘れてしまう。



君よ振り向くこと能(あた)わじ、忘却の彼方に去り、誘(いざ)らんや恋慕の情。



【修学旅行】4月・春の広島・平和公園



君との思い出しか記憶に無い。それは断片でしかない。

否、その記憶の衝撃の所為で他の思い出が飛んでしまったと言うべきか。

バスに揺られて水島の溶鉱炉の溶けた鉄の流れ出る様を見た事位で。

その時も、白いヘルメットの君を見詰めて。



春の平和公園。

あの公園の折鶴の少女の像の前で、班ごとに記念写真。

「こっちに来るな、側によるな」

「えっ、どうして・・・」

「いいから・・・こっち来るなよ」

君の側に寄ろうとした私を、避けた。

初めての拒絶。

その写真の二人は両端に離れて、眩しさでなのか、疲れか、眉間に皺を寄せて。

本当はね旅行が終わったら、自分の気持ちを告白する心算だったんだ。

だから、辛かったよ。どうして良いか解らなくなった。



資料館も個人的に三回目でみんなが思うほどのショックは無かった。

宮島で潮干狩りをした。

独りぽっちになった。



【いけない】11月・教室



秋の行事も終わり。卒業アルバムの製作へ取り掛かる。

作文も粗方決まりかけ、委員は編集のため居残りも多い。

君もその一人。水泳部はもう活動してないから、

毎日遅くまでがんばってたのを覚えているよ。

私は最後のバレーの大会か何かで忙しい日々だった。

何とか、前と変わらず続いていた。隣の席でいつもの感じで。



喧騒に包まれた教室で突然、君はそれを行う。

一枚の写真は、半年前の平和公園の写真。そしてカッターと定規。

丁重に私の所だけを君の器用さで真直ぐに切ってゆく。

「いけない」

「えっ」

突き出された、きれっぱしに戸惑う。

君は何とか手渡そうとむきになる。

「もってはいけない、だから・・・」

意味が解らない。私がここに居てはいけないのだろうか?

そう言うと机の上にそれを投げ出して、ぷいと後ろを向いて知らん顔を決めた。

「あー・・・」写真を手に取る。私だけが写る。独りぽっちだ。

手の中で鋭い切り口が痛く刺さる。

椅子の上で小さくなる。その存在が邪魔であればすぐにでも消えたかった。

いつのまにか君はそばにいて、凍えた私は見上げる事も出来ない。

「いいから、すてろよ」君の訛りの無い澄んだ声は殊更きつく、私に届く。

「・・・・」声にならない声で、返事をする。手の中のそれを捨てられそうで怖い。

胸に当て、丸くなる。守らなければならない、初めてのそれだから。

そんな私の机の両端を握りしめて、白くなった指の関節は今でも脳裏に。

「すてろよ・・・」言葉に先ほどの力は無い。

かがんだ私のつむじの辺りに君の息がかかる。

「・・・なあ・・・」普段と違う声だ。

こんな優しい声は初めてだった。言ってる内容を除けば。

全身が震える。目は顔の奥へ引っ込んだ様に感じる。

やたらと周りの音が遠く聞こえる。息が出来ない。喉が何かに塞がれる。

胸が詰まるが、冷たいものが胸から出て行く。

そこで私の時間は止まる。

何も見えない。感じない。

ずっと、そうしていた様に思う。

気が付けは学校は終わり、バスを降りて家に向っていた。

これから以降、長い間私は泣かなくなった。

本当に悲しいと泣けなくなる事を知ったから。



幾日たったろう。やべ君が私に告げる。

「あいつの荷物なくなってるぜ、どうしたのかなあ」

私は間抜けな返事をしたと思う。

それから程なくして、朝礼の挨拶に先生と君が立つ。

簡素な挨拶。

君は教壇の真上の照明を見て、口をしばっていたね。

私が見た君の最後の姿。

正門の所に君の両親の車が。

クラスメイトが窓に溢れ手を振る。

私は只ぼんやりと、椅子に座って、みんなを見ていた。



三学期、私の隣の席は空席のまま。

卒業式の練習、中学への準備と時は流れた。

式は君が述べる筈だったお別れの挨拶を、代理の委員が言う。

卒業アルバムには君がいる。

最後までレイアウトに悩んでいた君。

それは手渡される事は無く、郵送で送られた。



【それから】中学以降



からかわれるのが日常の生活に戻る。

いじめと言う言葉も概念も無い時代。

やり返さなければ、居場所は容易に失う。

男子に殴られることが多かった私は、

三回殴られれば一回は殴り返すと心に決め、実行する。

泣きながらでも、見っともなくても、自分独りで。

女子の友人を巻き込みたくなかった。

呼び出しにも不意打ちにも、独りだった。

常に悩みは解決した後話す事にしている。



それはひとりの修羅なのだ(宮沢賢治)



居場所を求めていながら、どのグループにも入らなかった。

何かを失い。それを埋める為に、詩を詠い、街に出た。

十代はそうして始まり終わった。



望みの居場所は既に無く。遥か彼方に。

呟き、希望の道標として、

私を支え、救った、君の名よ。

「ひかる」

今でもそれは、私だけの十字架。



【あとがき】現在



今は普通の母である筈。今ここで仔細を述べる気はないが。

旦那は私の居場所をくれた人である。

私の内にあった修羅はもう居ない。



当時の私は余りにも幼稚で、受け取るばかりだった。

「遠い空の下にいる君へ、ありがとうと、さようならを言うよ」

伝わることを信じて!



読んで下さった方、有難う御座いました。

by警備員75号